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神田正輝の家族構成を調査!父は石油会社社長で母は女優は本当?腹違いの兄弟について

この記事は、神田正輝さんの生い立ちや、家族構成についてまとめています。

俳優としても活躍してきた神田正輝さん。

2024年現在は、朝の情報番組を中心に活躍されています。

神田正輝さんは、大学時代に石原裕次郎さんにスカウトされ俳優デビューし、昭和のトップスターとして大人気でした。

目次

神田正輝の家族構成について

神田正輝さんの家族構成はこちらになります。

  1. 父:神田正次さん
  2. 母:杉輝子さん
  3. 本人:神田正輝さん

神田正輝さんには、兄弟はおらず一人っ子であることが分かりました。

神田正輝の父親:神田正次さん

神田正輝さんの父親は、神田正次さん。

父・正次さんは、石油販売会社の社長でした。

しかし、正次さんは母親以外の女性と結婚し子供がいます。

そして、神田正輝さんの母親とは籍をいれなかったそうなので、神田正輝さんは婚外子になります。

お母さんの名字が「神田」でないのは何故?と思いますが、そういう理由からなんですね。

父・正次さんは、第一次世界大戦が起きた1914年頃の生まれです。

1870年に制定された新律綱領では、一夫多妻制の法整備をしていた時代でもあり、地位がある男性が妻と別に愛人をもうけることも、ごく普通にありました。

 

神田正輝の母親:杉輝子さん(芸名・旭輝子さん)

では、神田正輝さんの母親はどんな人だったのでしょう?

神田正輝さんの母親の名前は、杉輝子さん。

母親の輝子さんは、「旭輝子(あさひてるこ)」という名前で松竹少女歌劇団に入団し、女優として活動していました。

とても上品で、美人なお母様ですね。

  • 本名:杉輝子
  • 活動名:旭輝子(あさひ てるこ)
  • 生年月日: 1924年10月30日
  • 死亡日: 2001年12月31日(享年77歳)

1939年、旭輝子さんは15歳で松竹少女歌劇団に入団。

12歳の時、「宝塚歌劇団」を受験し合格したものの、「宝塚歌劇団」は兵庫県宝塚市にあったため、東京の自宅から通うことができず、断念されました。

その後、1947年に松竹少女歌劇団を退団するまで、演芸やミュージカル、それ以降も映画「歌ふエノケン捕物帖」や「恋人のいる街」、舞台「パノラマ島奇談」や「じゃがたらお春」に出演。

他にも、テレビドラマ「とんだ忠臣蔵」や「丹下左膳」など、数々の作品に出演しています。

1949年、旭輝子さんが25歳の時に、10歳年上だった神田正次さんとの間に神田正輝さんが生まれています。

当時、父親の正次さんとは、結婚することなく別々に暮らしていたとのこと。

こちらが、旭輝子さんが亡くなる前に出演していた番組での写真です。

神田正輝さんが、俳優としてデビューした後、母親である輝子さんとのやりとりをこのように答えていました。

  • デビューして5年目くらいの時、オフクロに「俳優ってどうなの?芝居とかどうするの?」って聞いた。
  • すると私は女優だ。人にお芝居を教えられない。ましてや、女優は男優には絶対教えられない」って、厳しい言葉が返ってきました。

その為、生前「俳優業」については何も言われず、ただ陰ながら見守ってくれていた、とのことでした。

 

 

神田正輝さんに腹違いの兄弟がいるのは本当?

先述の通り、神田正輝さんは一人っ子として育っています。

しかし、父親と結婚相手との間に子供がいます。

なので、腹違いの兄弟がいることになります。

実際に何人なのかは明らかにされていません。

その為、ネット上では「神田正輝に弟がいる」と言われています。

 

 

神田正輝さんの生い立ちについて

神田正輝さんは幼少期より、母親と2人で暮らしていました。

当時、家には芸能関係の方の出入りが多くあったそうですが、神田正輝さんは芸能界にまったく興味がありませんでした。

学生時代に祖母の実家で一時暮らしていたそうですが、近所ではその美貌からかなり有名だったそうです。

神田正輝さんは、大学からスキーが大好きでプロ並の腕前があった事から、学生時代スキーに関わるアルバイトをしていました。

その当時の神田正輝さんの夢は、

山小屋を作りスキー関係の仕事に携わる

しかし、23歳の時、神田正輝さんは、石原裕次郎さんにスカウトされ別の道に進むこととなります。

初めは、芸能界に興味もなく断っていたそうですが、一度だけなら、、と挑戦することを決意しますが、活動後、すぐにブレイクしているんですよね!

神田正輝さんの素質を見抜いた石原裕次郎さんの眼力が凄いですね!

今回は、神田正輝さんの家族構成や生い立ちについてまとめてみました。

今後の活躍も楽しみにしています!

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